教えのやさしい解説

大白法 474号
 
総別の二義(そうべつのにぎ)
 総別の二義は、「一往(いちおう)・再往(さいおう)」、「当分(とうぶん)・跨節(かせつ)」などと同様に、本宗教義のあらゆる法相(ほっそう)法理の裁(さば)きに応用(おうよう)される語(ご)です。「総」とは全体に通じる一往の意味、一般的な意義をいい、「別」とは総に含まれる特別な再往の意義、肝要(かんよう)の意義をいいます。また法相の上からは、一往の総別を立て、さらに別の中に再往の総別を立てて、肝要の義を顕(あらわ)すこともあります。
 さて、総別の二義について『曾谷(そや)殿御返事』に、次のように仰せです。
「既(すで)に上行(じょうぎょう)菩薩、釈迦如来より妙法の智水(ちすい)を受けて、末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れかよはし給ふ。是(こ)れ智慧の義なり。釈尊より上行菩薩へ譲(ゆず)り与(あた)へ給ふ。然(しか)るに日蓮又(また)日本国にして此の法門を弘(ひろ)む。又是(これ)には総別の二義あり。総別の二義少しも相(あい)そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死(りんねしょうじ)のもとゐたらん」(御書 一〇三九)
 ここでは、法華経の総別の付嘱(ふぞく)の筋目(すじめ)から、付嘱の法と付嘱の人(にん)について御指南されています。総付嘱とは、正法(しょうぼう)・像法弘通(ぞうぼうぐずう)の法華経、及び一切の教法の付嘱で、法華経の会座(えざ)にあった一切の菩薩等に授(さず)けられました(嘱累品(ぞくるいほん))。また別付嘱とは、末法に弘通すべき文底(もんてい)本因妙の結要付嘱(けっちょうふぞく)で、ただ地涌(じゆ)の上首・上行菩薩に授けられたのです(神力品(じんりきほん))。故に末法で法華経を受持信行する場合、別付嘱である上行所伝(しょでん)の妙法を閣(さしお)いて、文上熟脱(じゅくだつ)の教法に執着(しゅうちゃく)するならば、総別の筋目から、決して仏道を成ずることはできないと仰せられているのです。
 さらに『御義口伝』では、仏身に約して、
「如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類(たぐい)の意(い)は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御書 一七六五)
と御教示されています。一往、在世(ざいせ)本門の立場から三世を束(たば)ねて、如来とは釈尊とし、そこから総じては十方三世の一切諸仏、別しては本地無作三身と仰せです。つまり、本門の釈尊以下の諸仏は、すべて本地無作三身の垂迹仏(すいじゃくぶつ)ですから、総別をもってその浅深(せんじん)の次第を示されたのです。
 また次に、再往、久遠元初(がんじょ)即末法の立場から、無作三身如来を判(はん)じられています。すなわち、総じて如来とは仏性を有する一切衆生であるが、別しては日蓮大聖人とその一門に尽(つ)きると仰せです。またこの別の中に、さらに総別があります。如来とは総じて「日蓮が弟子檀那」ですが、別しては本因妙の教主・日蓮大聖人ただ御一人に尽きると言う義です。このため、本地無作の三身とは、久遠元初即末法の法華経の行者日蓮大聖人にして、人法一箇(にんぽういっか)の上から宝号を南無妙法蓮華経如来と称(しょう)すると決せられているのです。
 このように、総別の二義は、在世と末法、下種と熟脱、また妙法教主の別など、法義上、重々に使用されています。しかも、その一々が大きな仏法の筋道を示しますから、法相(ほっそう)の構格(こうかく)を決する重要な法門といえましょう。